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喧騒とは「喧しく騒がしい」と書くのだ。トトはぼんやりとそう思いながら、見慣れた風景を見ていた。
広い街の中、どこもかしこもが煩いわけではないが、市場だけはいつ来ても騒がしい。人の往来も常に多く、わいわいと賑わっている場所だ。その上品物のやり取りをするために立ち止まる者が居れば、そこの交通は悪くなるときている。
ぼったくりとも言える値段の店もあれば、どこからどう仕入れればこんな値段で売れるのかというほど安い店もあり、またハズレとも言える商品があるかと思えば、まるで隠れるように掘り出し物があったりする。
そんな場所でボーっとしていていいはずはないのだが、彼はそういう商品選びを、全て料理人であるレオに任せていた。
ガスマスクのおかげでトトの表情は誰にも見えないのだが、長年行動を共にし、尚且つ先ほどまで隣に居たレオには彼のテンションが低いことが手に取るようにわかる。
レオは野菜を選び終わり、馴染みの店主に軽く別れを告げて、行きかう人の波から上手く外れて座り込んでいたトトに近づいた。
「いいの買えた?」
「当然だな」
得意げに紙袋の中の野菜を見せるレオに一つ頷いて、彼は壁から離れながら服に付いた埃を払う。
「次は何? 肉?」と質問しながら、野菜をよく見もせずに歩き出したトトに、レオは軽く眉を寄せながらも横に並んだ。
「興味ねーのかよ」
「あるけど、今齧ったらレオ怒るしね」
紙袋の口からのぞいているピカピカでハリのあるトマトは、この街で手に入れるには随分と質が良い。馴染みの八百屋だからこそ他よりも安く譲ってもらえるし、優先して回してくれるのだ。
その中から、レオが厳しく目を凝らして選び取っているのだから良い物であるに違いない。
レオはトトの様子に呆れながらも、彼と並んで歩いた。コー……ホー……とトトのガスマスクから音がする。
「相変わらず、空気悪いや」
ガスマスクの中で籠った声が、レオの耳に届いた。
雑然とした市場は、この街の中で一番明るく快活で、一番人が多く集まる場所だ。ただし地面は舗装されておらず、晴れの日は砂埃が舞うし、雨の日は靴が泥だらけになる。
トトは市場は嫌いではなかったが、この埃っぽい空気だけは苦手だった。
「それしてりゃ大丈夫だろ」とレオがガスマスクを突きながら言うと、「まあね」とそんな淡泊な返事が返ってくる。
本当は今日、トトは市場に来たくはなかったのだ。ついでに言うならば、普段も別に来たい場所ではないのである。
一日本を読んで過ごすつもりだった休日に、何が楽しくてこんなにも空気の悪い場所に来なくてはならないのか。
ただでさえ乾いた空気の中に居て、埃や砂は好き放題舞っている。人が集まるせいで市場だけ、この街の中で一番気温が高いのだ。
彼は足元を気にしながら、身長の割に大きな歩幅で歩いた。普通に歩くと、トトは長身のレオよりも足が速い。
「もうちょっとゆっくり行こうぜ」
「僕は早く帰りたい」
コーホーと音が鳴る。レオは未だに、ガスマスクって息し辛そうだよなあ、と時々思う。
しかし、いつもならトトに対して折れることのほうが多いレオも、こればかりは譲れないのだ。品物の選別には勿論時間がかかるし、馴染みの店ばかり寄ればいいというものでもない。
この街にはそれこそ世界中から流れの商人が集まって、定住したりまた流れて行ったりする。そういう彼等と上手く付き合っていかなければ、レオもトトも、そして今はここに居ないもう一人も、仕事にあり付けずに困ったことになるのだ。
それがわかっているトトは、はーと深いため息をついてから、「わかった、ゆっくり行こう」と意識して歩調を緩くした。
「よーウサギ! 今日は女連れじゃねーのか?」
魚屋のオヤジだった。レオはそれに「うっせーよ! 今はプライベートだっつーの!」と噛みつきながら、陳列された魚達を見る。青やら赤やら緑やら、食べるべきじゃなさそうな色の魚達が並んでいるが、生まれも育ちもこの街の二人には見慣れた魚だ。
トトは青い魚が好きである。白い身が詰まっていて、濃すぎず淡泊過ぎない味と、サッパリとした匂いがお気に入りだ。
これが食卓に並ぶだけで、半日くらいは機嫌が良くなる。
「なかなか良いのが入ってんだろ? そろそろお前等が来る頃だと思って、アオウオ取ってあるぜ。買ってくか?」
魚オヤジはニッと笑って人相の悪い顔を笑顔で彩ると、とっておきと見える魚をレオに見せた。人相は悪いが、笑うと愛嬌のあるオヤジである。
トトはレオの袖を引き「今日、魚でもいいんじゃない」と籠った声で言った。レオはさっき買った野菜を思い出しながらメニューを組み立てると、上手く考えが纏まったのか「いくら?」と商談に入っていった。
こういうのは、口が回るレオに任せた方がいい。トトは性に合わずすぐ飽きてしまって、「じゃあその値段でいいよ」と言ってしまうが、レオはトトの倍は値切り切るのだ。
一度手暇なのがトトだけだった時に買い出しに出たが、結局レオに怒られてしまい、それ以来一人で買い出しには行かせてもらえない。その代り、買い出しの代わりに荷物持ちとして連行されるのである。
トトはやはり人々の往来の邪魔にならない場所を素早く見つけ、そこへ身を引っ込めた。レオがオヤジ相手に値切っている姿が見て取れる。彼は馴染み相手でも容赦がないのだ。
「トト殿ー!」
そこへ、笠を被った男がトトに向かって走ってきた。抱えられた紙袋には何かがパンパンに詰まっている。それを落とさないように必死になりながら、嬉々とした様子で「今日は大量ですぞー!!」と叫んでいるのだ。
トトはガスマスク越しに相手を確認し、「おかえり、カイ」とその男に声を返した。
人も多くごった返した中でガスマスクの内側から放たれた声など聴きづらいだろうが、カイにはあまり問題ない。
「何が買えた?」
「入用の物は全て買えましたぞ! 今回は前回の半分くらいの値段で仕入れられましてな、これでレオ殿も納得してくださろう!」
「そう。よかったね」
トトにそう言われ、カイは安心したような、張りつめていた気が抜けたような息をついた。
出身がこの街ではないカイはトトやレオよりも香辛料に詳しく、それを仕入れるために別行動をしていたのである。
いっぱいになった紙袋を大事そうに抱えながら周囲に警戒しつつ、カイはトトと共にレオの戻りを待った。
トトよりもましではあるが、カイは元々値切るということをしたことがない。レオに半ば強制的に弟子入りさせられて、それも素直に聞き入れながら、スパルタすぎる指導に付いていくその根性が気に入られ、少し不憫だ。
「レオ殿は肉ですかな?」
「今日は魚になったよ」
「なんと! 魚ですか! 久しぶりですなあ」
魚はすぐに傷んでしまい、この街では中々食べられたもんじゃない。あの店が一番品質がいいのだが、それでもレオは慎重に慎重に選別している。
魚オヤジがそれに張り合うものだから、品質は上がるばかりだ。それでも値段があまり変わらないカラクリがトトは気になって仕方がないのだが、オヤジも商売人である。教えてくれそうにないので、数年前に諦めた。
「おーう、カイも買えたか」
商談を終えたらしいレオが二人の元へやってくる。生魚の匂いのする包みを持って、清々しい表情だ。どうやら安値で買えたらしいと、トトは野菜の袋を抱えなおすと、レオの方へ一歩近づいた。
「あと必要な物は?」
「んー、粗方揃ったな。買い込むと鮮度落ちるし、今日はいいだろ」
「では帰還ですな!」
元気よく声を上げたカイにトトは一つ頷いて、家までの一歩目を踏み出した。トトの後ろにカイとレオが並ぶ。
「お前、今日いくらで買えたんだよ」とカイの核心を突くレオに、カイが緊張した声で金額を告げると、レオは「んー」と唸ってから「及第点だな! よくやった!」とカイの笠を撫でる代わりに揺さぶった。
「レオ殿のおかげですぞ! ですが、笠をいじるのはやめてくだされーっ!」と二人が後ろでじゃれているのを聞きながら、トトはマスクの内側で微笑む。
今日は珍しく、この街が平和だ。