balcony
ガスマスク少年達

002

 「依頼を受けるには条件がある」とトトは言った。アリーナはその言葉に僅かな不安を抱き、唾をゴクリと飲み込んで、「な、何でしょう」と震えた小さな声を出す。

 イリグチという門番に紹介されたトトという人は、ガスマスクを顔に被っているせいで表情が一切見えない。

 声は若い男の子の声だった。籠っているうえ、コー……ホー……と特徴的な音と共に出される声は、それでも利発そうな、淡々とした冷静なもの。それは少年らしく中性的な美しい声だというのに、ガスマスクのおかげでアリーナはついつい身構えてしまう。

 彼女が『ナンデモ屋』に連れてこられるまでにイリグチから聞かされたのは、彼等が報酬次第で何でもしてくれるということと、信用が置けるということ。そして年齢が自分と二つから四つしか離れていないということだった。中でもトトは十六歳で、彼女と一番歳が近い。それを聞いて、ナンデモ屋に来るまで彼女は少し安心すら覚えていた。

(歳が近いなら、お話しやすいかもしれない)

 けれど実際のところ、そう簡単にはいかないようだ。

 彼女が十四年間生きて見てきた人間達とは、彼等は――アウトローシティの住人達は性質が違う。というところまで幼い彼女は気づかないが、まとう雰囲気が全くの別物であるということはなんとなく感じていた。

 生活に苦労してこなかった彼女とは違い、彼はこんなにも若くして『ナンデモ屋』なんて仕事をしている。自分が恵まれた環境に置かれていて、今までそういう苦しみを知らなかったのだということを、アリーナは彼と接することで痛感していた。

「名前を変えてもらう」
「え?」

 「名前?」と要領を得ないアリーナには対し、イリグチは「ああ、そうだね」と納得顔だ。

 アリーナにはトトがどんな顔をしたのかがわからない。もしかして、「物を知らない子供だな」などと思われているのではないか。彼女はそう考え、肩を小さくして俯いた。

 トトはといえば、彼女の反応を見て「外の人間には名前を変える目的がわからないんだった」とぼんやり思い、まだ幼いアリーナにどう説明したものかと考えているだけだったのだが、やはり見慣れない装備を前に、彼女はまだコミュニケーションに戸惑いを感じている。

「……この街で本名は教えない方がいい。そういうこと。もしまた外へ出た時に、ここと同じ名前だと角が立つかもしれないし、他にもいろいろ都合が悪いから」
「そう、なんですか」

 アリーナがイリグチの顔をチラリと見ると、彼は人のいい笑顔で小さく頷いた。彼女はそれを見て素直に新しい自分の名前を考える。けれど両親から付けてもらったこの名前に馴染みすぎて、他の名前なんて浮かびやしなかった。

(自分で自分に名前を付けるって、変な感じ)

 うーんうーんと唸るアリーナを見て、レオは改めて彼女が外の子であるということを突きつけられるようだった。

(これは俺達も、苦労しそうだ)

 そんなふうに思うレオの内心など、アリーナは名前に夢中で気付かない。いや、表情を見ていたとしても、わからなかっただろう。

 外から来た彼女にどこからどこまでのことを教えていいものかが、外へ出たことのないトトとレオには判断が難しい。

 自分に名前を付けることでこんなに悩む少女と自分達がいかに別の種類の存在であるのか、見えたたところで何も感じないが、ただ自分達とは違うのだな、と無感動に思うのだ。

 元の名を捨てる――とまではいかずとも、隠して生きることに対する違和感なんてものを、レオは感じたことがない。なぜなら、レオは初めからレオだから。

「難しいようなら、名前から一文字取るとか、一文字付けるとか、その程度でもいいんだよ。実際そういう人もいるからね」

 イリグチの言葉にアリーナは首をひねり、それからまた少し考えると、パッと顔を上げた。

「じゃあ、アリー……とか、でしょうか」
「そう、いいんじゃない」

 「じゃあ、くれぐれも名乗る時に〝ナ〟を付けないようにね」。そう言って注意するトトは、彼女の頼りなさに戸惑っていた。

 こういう少女は、この街には居ない――生きていけない。

 けれどイリグチから任された仕事であるし、その上仕事を終えれば破格の報酬が貰えるのだ。

 普段自分達が気にかけずして侵さないようにしている〝この街のルール〟を教えるのは思ったよりも難解かもしれなかったが、思いつく都度言っていく方が下手に考えるよりもいいのかもしれない。

 けれど問題はそれだけではないのだ。

 教えていいことと、教えてはいけないことが、この街にだって存在する。それもこんな幼い、汚れを知らない少女であるなら尚更に――そう考えた時に、トトは黙ったまま立ちっぱなしのカイを見やった。

「カイ」
「? なんですかな?」
「ちょっとの間、アリーのことはキミに任すよ」
「な、なんですと!?」

 突然のことにカイは狼狽えオロオロとその場に居る面々を見まわす。

 アリーはまともに話しているのすら聞いたことがない彼に自分の身を預けられると聞いて少し不安そうであるが、イリグチは得心したような顔で微笑むだけだ。レオにいたっては「ああ、それいいな」などと言っている。どういうことだ、いきなり自分に任せるだなんて、とカイは混乱が収まらない。

 カイがこの街に来たのは三年と少し前。そして、トトとレオの二人に出会ったのもその頃だった。

 なんだかんだで彼等と共に過ごし働くことになったが、今まで大きな仕事の契約に口を出したことはないし、単独で任せてもらうのだって、せいぜい逃げたペットの捕獲やら屋根の修理やら、そのくらいのものだ。

 だがそれに不満を感じたことはなかった。彼等と一緒に仕事をしていれば豊かではないにせよ衣食住は確保されたし、この街の中でこの二人ほど頼りがいのある人はそう居ない。二人に比べて経験が足りていないのを彼はよくわかっていた。

「僕もレオも、外のことはよく知らない。外から来たカイの方が、きっとアリーと話も合うし」
「で、ですが! 私一人でなどと……!」
「丸投げはしねーよ。俺等も要領さえ掴めれば大丈夫だろうからな」

 「それまでの間の話だ」と言うレオに、お二方に掴めていない要領があるのか!? とカイはそう言いたい気持ちだったが、せっかく彼等が任せてくれると言っているのだ。

 この街のことならトトとレオには敵いようのないカイだが、外のこととなれば二人よりも詳しいというのは彼にも納得だった。

 聞くに、二人は外に出たことがない。

「……わかり申した!」

 ようやく納得し、カイはいつもの元気な声で返事をする。「でかい仕事だぞー頑張れよ!」そう言って彼の肩に腕を回すレオに、「お任せ下され!」力強く頷いた彼の笠が珍しく揺れた。「どれだけ強く頷いてるの」と言ったトトの声がガスマスクの向こうで少し笑っているのがわかり、アリーは目を丸くして見ていた。

2020/09/02